土曜日。前日のチェナール祭で家族全員へとへとに疲れたので、月子も学校をサボりました。我が輩は午前11時まえまで眠りこけました。朝ご飯は餅ピッツア。前日のお祭りで餅つきデモンストレーションに使った餅を内儀がもらってきたのでした。手さし水にミネラルウォーターじゃなくて水道水を使ったということで、みんな遠慮したのかな。ちなみにイランでは水道水を飲むことができます。ただしカルシウム分が多いので、結石になりやすいだけの話。今年の水は地下水じゃなくてダム水らしく、例年より柔らかいみたいです。ミネラルウォーターじゃないことをぜんぜん気にしない我が家は餅をもらって大喜び。
午後はコーヒーを入れたり、写真整理、そして寝転び読書。村上春樹さんの「1973年のピンボール」読了。
1980年に出たこの小説、今読むと主人公たちはチェインスモーカーで、吸い殻をどこにでも捨てるし、アル中で飲酒運転をふつうにやっているし、重金属を使った配電盤を貯水場に投げ捨てるなど、からだにも環境にも悪い反社会的なことを平気でやっています。女性たちは男たちとすぐに寝るし、そんなんありかと思いませんか。
我が輩にとって村上春樹は、亡きレイモンド・チャンドラーが生きていて、探偵小説じゃないちょっと不思議な小説を日本語で書いてくれているという存在です。その本家レイモンド・チャンドラーのシリーズを読むと、やはり主人公のフィリップ・マーロウは女とすぐに寝るし、チェインスモーカーだし、いつもウィスキーを飲んで運転している。何度か読んでいると気にならなくなるけれど、はじめの何回かはモク中アル中飲酒運転性感染症がとても気になります。
「1973年のピンボール」に戻ると、文庫本にしてこのたったの4行が小説を凝縮しています。
「僕たちはもう一度黙り込んだ。僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖かい想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。」
団塊の世代じゃなくても、若い男性がかならず持っているやり場のない苛立ち、つきあう女性がいても解消されない将来への不安、何も持っていない、何もできない苛立ちみたいなものが書かれていて、村上さんより10歳年下の我が輩がいま読んでも新鮮です。
団塊の世代はエネルギーに溢れていて、我が輩が駆け出しのころにはすでに彼らによって世界の隅々、たとえばイラクのバグダッドの郊外の道端のメシ屋どころか、もっともチープな娼館まで開拓されていて、誇張をまじえて言えば、我々の世代の仕事の大きな部分は、団塊の世代の先輩たちの終わりない語りを聞くことで占められていました。団塊の世代はたばこをつい続け、酒を飲み続け、ほとんど休むことを知らず行動し、世界を隅々まで開拓し、そのことを大いに語り、そしてたばこを吸い、語りつつ酒を飲み続け、大量の吸い殻を残しました。我々にとって先輩とは、おっさんとは、社会人とは、組織とは、団塊の世代でした。まるで日本には団塊の世代以前には誰もいなかったかのような錯覚さえおぼえます。団塊の世代の前が大東亜戦争で、その前は日露戦争だった、みたいな。
早いめの夕食は野菜天婦羅丼。しみじみおいしかったなあ。ご飯を味わいながら、内儀に言いました。
「きみが先に死んでしまったら、何をつくっていいかわからなくなるよ。メニューをマトリックスにしといてくれないかな?冷蔵庫にたまねぎとピーマンはあるけれど人参がない、その時はこういうメニューとか。横の列に野菜がならんでいて、縦にその有無があって、いちばん右のコラムに対応できるメニュー。」
「そんなことないでしょ、いままでいろいろ作ってくれたじゃない。」と内儀。
「きみが週末の学校に行ってたときは、日本の食材の豊富さに救われたんだよ。日本だったら夕立の匂いと、そのあとのスイカを切る包丁の音とかでイマジネーションが広がって、そうめんと冷奴と枝豆とビールってなるけど、いままで世界のあちこちで暮らしてきたから、そういう結びつきがあんまりできていない。」
本気で、マトリックスをつくっておかないといけないと思います。
午後はコーヒーを入れたり、写真整理、そして寝転び読書。村上春樹さんの「1973年のピンボール」読了。
1980年に出たこの小説、今読むと主人公たちはチェインスモーカーで、吸い殻をどこにでも捨てるし、アル中で飲酒運転をふつうにやっているし、重金属を使った配電盤を貯水場に投げ捨てるなど、からだにも環境にも悪い反社会的なことを平気でやっています。女性たちは男たちとすぐに寝るし、そんなんありかと思いませんか。
我が輩にとって村上春樹は、亡きレイモンド・チャンドラーが生きていて、探偵小説じゃないちょっと不思議な小説を日本語で書いてくれているという存在です。その本家レイモンド・チャンドラーのシリーズを読むと、やはり主人公のフィリップ・マーロウは女とすぐに寝るし、チェインスモーカーだし、いつもウィスキーを飲んで運転している。何度か読んでいると気にならなくなるけれど、はじめの何回かはモク中アル中飲酒運転性感染症がとても気になります。
「1973年のピンボール」に戻ると、文庫本にしてこのたったの4行が小説を凝縮しています。
「僕たちはもう一度黙り込んだ。僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖かい想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。」
団塊の世代じゃなくても、若い男性がかならず持っているやり場のない苛立ち、つきあう女性がいても解消されない将来への不安、何も持っていない、何もできない苛立ちみたいなものが書かれていて、村上さんより10歳年下の我が輩がいま読んでも新鮮です。
団塊の世代はエネルギーに溢れていて、我が輩が駆け出しのころにはすでに彼らによって世界の隅々、たとえばイラクのバグダッドの郊外の道端のメシ屋どころか、もっともチープな娼館まで開拓されていて、誇張をまじえて言えば、我々の世代の仕事の大きな部分は、団塊の世代の先輩たちの終わりない語りを聞くことで占められていました。団塊の世代はたばこをつい続け、酒を飲み続け、ほとんど休むことを知らず行動し、世界を隅々まで開拓し、そのことを大いに語り、そしてたばこを吸い、語りつつ酒を飲み続け、大量の吸い殻を残しました。我々にとって先輩とは、おっさんとは、社会人とは、組織とは、団塊の世代でした。まるで日本には団塊の世代以前には誰もいなかったかのような錯覚さえおぼえます。団塊の世代の前が大東亜戦争で、その前は日露戦争だった、みたいな。
早いめの夕食は野菜天婦羅丼。しみじみおいしかったなあ。ご飯を味わいながら、内儀に言いました。
「きみが先に死んでしまったら、何をつくっていいかわからなくなるよ。メニューをマトリックスにしといてくれないかな?冷蔵庫にたまねぎとピーマンはあるけれど人参がない、その時はこういうメニューとか。横の列に野菜がならんでいて、縦にその有無があって、いちばん右のコラムに対応できるメニュー。」
「そんなことないでしょ、いままでいろいろ作ってくれたじゃない。」と内儀。
「きみが週末の学校に行ってたときは、日本の食材の豊富さに救われたんだよ。日本だったら夕立の匂いと、そのあとのスイカを切る包丁の音とかでイマジネーションが広がって、そうめんと冷奴と枝豆とビールってなるけど、いままで世界のあちこちで暮らしてきたから、そういう結びつきがあんまりできていない。」
本気で、マトリックスをつくっておかないといけないと思います。
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