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6月, 2015の投稿を表示しています

お焦げ炊き込みご飯。きゅうりじゃがいもサラダ。その他いろいろ。

日曜日。このごろの朝は下の管理人のおじさんに自動車を出してもらって花子の学校まで行きます。花子を学校に送りとどけ、月子とバス停まであるき、そこからそれぞれの方向のバスに乗ります。午前中は来客、お昼は弁当、午後は大使館。会社で一番くじをひいて、SBディナーカレーのルーをもらいました。やったー。 クソ暑いなか帰宅したら、内儀月子花子みんなバテていました。来客があったとのこと。(がき)んチョたちも来たようです。月子花子がんチョだったころ、んチョたちがきても平気だったのに、月子花子が娘さんになったとたん、んチョがきたら疲れるんだからおもしろいよね。それだけトシをとったということか。夕食は残りもののお焦げ炊き込みご飯。きゅうりじゃがいもサラダ。その他いろいろ。 夕食後ねっころがって「オリガ・モリソヴナの反語法」読了。何度も休みながら読みました。何度も休まないと心がもたないような、でもすぐに戻ってしまう不思議な本です。 朝の出勤のとき、月子とバス停まであるきながらこんな話をしました。 中学生くらいだったパパにとってソ連とかロシアっていうのは、とても暗いイメージだった。なぜかといえば、家にあった「リーダーズ・ダイジェスト」という本で、ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソビッチの1日」だったか「収容所列島」だったかのあらすじを読んだから。なぜ家にリーダーズ・ダイジェストがあったのか、いま考えたらよくわからない。たぶん死んだ西宮のおじいちゃん(父のこと)は母子家庭で育ったので、父親として思春期の息子にどう接していいのかわからないので、息子が読みそうな本を目のつくところに置いたのかもしれず、それをきっかけに何か話したかったのかもしれない。 月子はこういいました。ロシアに行ってみたいなあ。

ホシュマゼ焼き。卵焼き。味噌汁。ごはん。きゅうりと人参の浅漬け。

土曜日。朝はバルバリとタイカレー。お昼に買い物。帰ってからのお昼は野菜を入れた卵入り小麦粉焼きをマヨネーズと醤油と七味で食べるという単純な料理です。いわばお好み焼きのうすっぺらいやつですが、名前の候補がいろいろ。いわく、ペルシア語でおいしいという意味のホシュマゼ焼き。花子がツンデレなのでツンデレ焼き。あるいは単純にテヘラン焼き。ま、なんでもよろしい。そのうちに定着するでしょう。午後は読書。米田万里さんの「オリガ・モリソヴナの反語法」、杉山経昌というおじさんの「農で起業する!脱サラ農業のススメ」この2冊のぜんぜん傾向の異なる本と居眠りをとっかえひっかえ。 夕食は卵焼きのせごはんと味噌汁。そしてきゅうりと人参の浅漬け。たまねぎとジャガイモの味噌汁をごはんにぶっかけて頂きました。

焼き鮭ご飯。味噌汁。

金曜日。朝はバルバリ、クリームチーズ、コーヒー。お昼はインスタントマカロニ。調理法に水500cc、油200cc、ミルク250ccで煮る、とあったので当然オイルはパスし、ミルクをお湯に投入しようとしたら、こないだまでたしかに牛乳だったのにヨーグルトになっていました。カスピ海ヨーグルトかな?なーんてね。味見したらふつうのヨーグルトなので、そのまんま使用。ちょっと酸味のある旨いマカロニになりました。花子の切ってくれたすいかなどつまみながら、「負うた子に教えられ、てか。」なんてぶつぶつ。兄貴からスカイプ。夕食は焼き鮭ご飯。味噌汁。 フランスで化学工場が襲撃されたり、チュニジアのリゾートビーチが襲撃されたり、クエートのシーアモスクが爆破されたり、事件がてんこもりの日でした。こんな日はNHKに限るぜ、なーんていいながらNHKテレビをみたら大当たり。ふんどしデブがジンガイを案内して四国参りをしていたり、浜離宮の茶店の宣伝をしているぜと思ってみていたら、スーツ姿のオカマが天気予報をはじめました。NHKワールドさん完全に我が道をいってます。

タイカレー。タイ風ビーフンサラダ。貴重なスコッチ。

木曜日。朝は花子を送ってから出勤。お昼は鮭弁当。夕刻、冷蔵庫が運び込まれるなかさっさと退社しすいかを買って帰宅。シャワーを浴びて着替え、みんなで手分けして料理をもってPTA会長宅へ。チェーナール祭りの打ち上げです。PTA会長は武官なので、本物のビールや本物の大吟醸や本物のシャンペンや貴重もののスコッチを頂きながら、タイカレーやタイ風ビーフンサラダなど頂戴しました。うまかったなあ。あんまり美味しかったので、夏に一時帰国して日本でなにを食ってなにを飲んだらいいのかわからなくなったくらい充足しました。

やきそば

水曜日。朝は月子花子といっしょに家をでました。お昼は弁当。夕刻さっさと退社してバルバリを買って帰宅。夕食はやきそば。食後、「ねじまき鳥クロニクル」第3巻を読了。

野菜チャーハンスペシャル

火曜日。朝ごはんのとき買い物リストをもらいました。月子の調子が戻ったので花子、我が輩と3人で早いめに出発。花子を学校に送り届け、月子とバス停まで歩き、我が輩はダウンタウン、月子はアップタウンへ。お昼はカレーとサラダ弁当。夕刻、しごとを終えて会社の図書室で村上春樹さんの「ねじまき鳥クロニクル」第2巻を発見。いくらさがしてもないと思っていたのですが、文庫本じゃなくて単行本でありました。やっほー!というわけで気分よく、とちゅうで頼まれた買い物をして帰宅。夕食は野菜チャーハンスペシャル。 外国で暮らして働いていていいところは、たとえば「ねじまき鳥クロニクル」の第2巻がほしくなっても、もし会社の図書室にも学校の図書館にもなければ、がまんするしかないところです。そんなわけで我が輩のアマゾンの欲しいものリストはかなりいろいろ詰まって長くなっているはずですが、実はそうでもありません。リストが長くなると、吟味して削除するのです。外国で暮らして働いていていいところは、アマゾンの欲しいものリストが発注されないうちにどんどん削除されてしまうこと。それはしかし、決して我が輩の欲望が減ったわけではなく、たんに我慢せざるを得ないから我慢するうちに慣れてしまうということです。

パスタ入りトマト玉ねぎセロリスープ。バルバリ。

月曜日。夏至の翌日、夏の第2日め。これから日が短くなるといっても、太陽の昇る場所が4日に1度くらいしか変わらないので、あんまり変化なし。朝は花子とふたりで出発。いつものように出社。お昼は弁当。午後、大使館から来客。夕刻、さっさと退社。帰路、いつもの八百屋でチェリーとすいかを買って帰宅。シャワーを浴びてちょっとだけうとうとして軽めの夕食。パスタ入りトマト玉ねぎセロリスープ。バルバリ。 食後テレビでRTとプレステレビをみていたら、パキスタンでは暑さで200人が死んだんだとか。首都イスラマバードでも夏の盛りに1日16時間くらい停電していたかなあ。パンジャビのラホールではもっと通電時間が短かったし、カラチはなおさらだろうな。そして断食月。パキスタンのモスレムはまじめに守るやつが多いんだろうな。それに比べたらテヘランは停電がなくて、リゾートみたいなもんやね。

親子丼。

日曜日。夏至。今日から公式に夏になります。冬至にすいかを食べたり、夜更けに年寄りの話をおとなしく聞いたり、という風習をもつイラン人も、クソ暑いせいか夏至は特段なにもしません。おとなしく出勤。お昼は弁当。 夕刻、某ルートで特別に手に入れた葡萄酒の蒸留酒のデリバリーがありました。蒸留酒が1.5リットルということは、原料となる葡萄酒は15リットル。15リットルをぶどうジュースで作ろうと思ったら、75万リアル(2850円)かかります。本日入手した蒸留酒はそれを考えたらお得です。 蒸留酒のキャップを開けて匂いを嗅いでみたら、ちょっと刺激がありました。米田万里さんの本に、グルジアかどっかでつくったどうしようもないウォッカを黒パンの耳で濾過したら極上ウォッカになったという話を思い出し、帰路に黒パンを買いました。 思い出した。帰路バス停で午後5時の西日の直射日光を受けたとき、暑いというより痛かったなあ。 帰宅して黒パンを切り、フライパンでぱりぱりに焦がして手でつぶしてコーヒーフィルターに詰め、ぶどう蒸留酒を濾過しました。ビフォーとアフターを飲み比べてみたら、あら不思議。とげとげしさが消えてマイルドになりました。蒸留酒をたっぷり吸った黒パン粉は、鶏肉でも漬け込んでおきましょうか。 夕食は親子丼。このごろ内儀と花子と月子がガールズトークで盛り上がっています。今日は父の日とやらで、夕食時に「パパにありがとうって思うこと」をそれぞれ発表してくれました。我が輩も「ずいぶん楽しませてくれてありがとう。」と言いました。

冷やしうどん+きゅうりわかめ+温泉たまご

土曜日。月子が登校するのでふつうにおきましたが、バルバリの朝食のあと塩野七生さんの「男たちの肖像」を読みはじめ、あっというまに読了。めんどくさそうなおばちゃんだけど「我が友マキャベッリ」がよかったからなあ。男をセクシーさで評価するのはまだいいとして、家柄とか育ちが違うっていわれてもどうしようもない。最古の腐女子やからしょうがないね。1937年生まれなので、我が輩の「ワシが舞い降りたった」によると、島国根性世代。その反動からイタリアまで飛んでいってしまった人。 お昼前に内儀、花子、我が輩の3人で外出し、慎重に日陰を選んで歩き、ジャムジャメ超級市場で月子と合流。お買い物をして、やはり慎重に日陰を選びつつ歩いていると、なんと前を歩いている3人組が缶ジュースを飲んでいるじゃないか! 仮にもいまはラマザン(断食月)ですぞ。しかも白昼の路上である。 「外国人かな?」「ペルシア語喋ってるよ。」「クリスチャンかな?」 てな会話をうちわでしているうちに、そこらへんのビルにはいっていきました。我が輩も喉が渇いたので、人が見ていないうちに買っておいた500mlペットボトルから水をひと口。それを花子に咎められました。ええねや。イスラムっちゅうのは他人が見てるときだけ取り繕ったらええねんから。アッラーはアラブ人の氏神さんやねんで。山紫水明の日本の神々とはぜんぜんちゃう。 途中で八百屋にたちよりすいかを購入。ひーふーいいながら抱えて帰り、帰宅してシャワー。お昼はお好み焼きみたいなナントカ焼き。それから村上春樹さんの「ねじまき鳥クロニクル」第1巻読了。読みはじめてから、いつかどっかで読んだことがあるような気がしましたが、そのうち気にならなくなった。村上春樹さんは我が輩にとって、レイモンド・チャンドラーがいきていて、日本語でちょっと不思議な小説を書いてくれているという存在なんだけど、唯一のちがいとして、チャンドラーのミステリーは何度読んでもはじめて読んだ気になるんだけど、村上さんのほうははじめて読むはずなのに、いつかどっかで読んだような気がすることかな。 夕食は冷やしうどん+きゅうりわかめ+温泉たまご。うちの内儀、もう温泉たまごづくりにかけてはプロですわ。いやほんま。

炒飯スペシャル

金曜日。前日の夜は酒井順子さんの「煩悩カフェ」を寝床で読みつつそのまま寝てしまったらしく、目覚めたら本はたんすの上にありました。カーテンを開け、水を飲み、すいかを切り、さて前夜と同じくポテトフライにするか、それともジャガイモたまねぎ炒めにするかと考えながらコーヒーとシナモン紅茶を入れたら腰がヤバくなってきたので、そのまんまソファーに横たわって「煩悩カフェ」のつづきを読んでいたら内儀が起きてきました。 遅い朝ご飯はすいか、ポテトフライ、バルバリ、クリームチーズ、コーヒー。 昼過ぎにすいかを買いに出ました。かんかん照りの下、日陰木陰を慎重に選びつついつもの八百屋にいったらおやすみ。ラマザン(断食月)の金曜日のお昼やからね。しかたがないのでその斜め向かいのめったに行かない八百屋ですいかを買いました。とはいえ値段はどちらの八百屋で買っても、ほとんどいっしょ。7〜8kgくらいのすいかが15万リアル(570円)くらい。この値段だと家にすいかモンスターがいても平気です。ちなみにテヘランですいかは冬至の日まで売っています。でっかい国やからね。 慎重に日陰木陰を選びつつ帰宅。この乾燥した高温の夏と、冬に雪を抱く3000〜5000メートルの山々、そしてゆたかな地下水脈が、ぶどうとかすいかとか旨い果物を作りだしすんだよな、などど考えました。帰宅してシャワーを浴び、司馬遼太郎の「街道をゆく7」を読みふけりました。伊賀・甲賀、大和・壺阪、明石海峡と淡路、砂鉄のみちなど我が輩の故郷をはじめ西日本の近所が中心なのであれこれ想像しながら読了。「千二百 貫の鉄を得るのに四千貫の木炭を使った。四千貫の木炭といえば、ひと山をまる裸にするまで木を伐らねばならない。木炭四千貫といっても、江戸時代のやり方ならわずか三昼夜でつかってしまうのである。」というところで霊感。 そうか。古代は緑の沃野だったシラーズが石灰岩まるだしの奇岩山と砂漠になってしまったのは、神殿建設に必要な木材と石材、その石材加工に必要な鉄器、その鉄を溶かしだすための燃料としての木材伐採にあったのかもしれない。植林しなかったのかもしれないし、植林しても根が地下水脈に届くまで育たなかったかもしれない。若芽を遊牧のヤギに食べ尽くされたのかもしれない。でも近代的な技術をもってすれば、また緑の沃野に短期間でもどすことができるんではなかろうか、

バルバリ。野菜サラダ。ポテトフライ。

木曜日。ラマダン(断食月)第1日め。朝はスムーズに出勤。バス停をおりたところで、ばるばりを10枚くらい抱えてあるいている若いもんを見かけました。オフィスにつくと、外で飲み食いできないせいか、スタッフはみんなでフルーツとかクッキーをつまんでお茶をしていました。お昼も同様。我輩は会議室かどっかにひっこんで弁当を食べようかと考えていましたが、テヘランではそんな気遣いもいらなさそうです。定時でさっさと退社して、帰路焼きたてのバルバリ(まだ日が高いのにちゃんと売ってるやん)と野菜を買って帰宅。内儀が「どんなごはんの気分?」とたずねるので、「バルバリとトマトの野菜サラダとポテトフライ!」とお願いしたら、そのとおりの晩ご飯をつくってくれました。

メヒどん。

水曜日。朝はちょっと早く出たので快適に出社。朝一番で外務省西アジア局。外務省は上品でスマートやね。お昼はおにぎり弁当。午後はとつぜんはいった広報のネタ集め仕事。夕刻さっさと退社。冷房バスが7台つづけて来ました。なんでや?帰りに肉屋でたまごを買って帰宅。 夕食はなんと表現したらいいのか。トルティーヤの具をごはんに載せた丼。名付けてメヒコ丼。縮めてメヒどん。意外とうまかったですぞ。

野菜天ぷら冷やしうどん

火曜日。朝いつもより5分ばかり遅くなったら、来るバスが3台つづけてヒゲおやじ満載で見送り、オフィスに到着したら定刻ぎりぎりでした。お昼は弁当。夕刻さっさと退社してすいかとチェリーを買って帰りました。前日もおなじパターンですが、うちにはすいかモンスターとチェリーモンスターがいるからねー。夕食は野菜天ぷら冷やしうどん。

鶏唐揚げサラダ。バルバリ。きゅうり塩もみ生姜風味。なす揚げ浸し。

月曜日。月子の元気がないので我が輩ひとりで花子を送ってから出勤。お昼は弁当。夕刻さっさと退社。帰路チェリーとすいかを買いました。シャワーを浴びているあいだに花子がすいか1/4を略取。すいかモンスターですな。夕食は鶏唐揚げサラダ。バルバリ。きゅうり塩もみ生姜風味。なす揚げ浸し。

温泉卵冷やしうどん

日曜日。朝はひさしぶりにひとりで出勤。午前中は用務で税関。帰社してお昼は内儀のサンドイッチ。午後は議事録翻訳など。夕刻さっさと退社。あと1週間で夏至。本日の予想最高気温は摂氏38度。日陰を歩いているぶんにはいいのですが、日向に出るといきなり消耗します。なつかしいゲームDOOM2で放射能汚染地域にはいったら生体エネルギー残量が急激に低下する、あの感じです。帰宅途中でぶどうジュースとたまごを購入。夕食は温泉卵冷やしうどん。今日の温泉卵は大成功です。おめでとう!と、鎮魂酒を切らしたので本物ワインで乾杯。うどんにはオクラものっていて、ネバネバ感が甚だ宜しい。「俺、キミのつくるご飯好きだなあ。」と告ってしまいました。

野菜天ぷら丼。

土曜日。前日のチェナール祭で家族全員へとへとに疲れたので、月子も学校をサボりました。我が輩は午前11時まえまで眠りこけました。朝ご飯は餅ピッツア。前日のお祭りで餅つきデモンストレーションに使った餅を内儀がもらってきたのでした。手さし水にミネラルウォーターじゃなくて水道水を使ったということで、みんな遠慮したのかな。ちなみにイランでは水道水を飲むことができます。ただしカルシウム分が多いので、結石になりやすいだけの話。今年の水は地下水じゃなくてダム水らしく、例年より柔らかいみたいです。ミネラルウォーターじゃないことをぜんぜん気にしない我が家は餅をもらって大喜び。 午後はコーヒーを入れたり、写真整理、そして寝転び読書。村上春樹さんの「1973年のピンボール」読了。 1980年に出たこの小説、今読むと主人公たちはチェインスモーカーで、吸い殻をどこにでも捨てるし、アル中で飲酒運転をふつうにやっているし、重金属を使った配電盤を貯水場に投げ捨てるなど、からだにも環境にも悪い反社会的なことを平気でやっています。女性たちは男たちとすぐに寝るし、そんなんありかと思いませんか。 我が輩にとって村上春樹は、亡きレイモンド・チャンドラーが生きていて、探偵小説じゃないちょっと不思議な小説を日本語で書いてくれているという存在です。その本家レイモンド・チャンドラーのシリーズを読むと、やはり主人公のフィリップ・マーロウは女とすぐに寝るし、チェインスモーカーだし、いつもウィスキーを飲んで運転している。何度か読んでいると気にならなくなるけれど、はじめの何回かはモク中アル中飲酒運転性感染症がとても気になります。 「1973年のピンボール」に戻ると、文庫本にしてこのたったの4行が小説を凝縮しています。 「僕たちはもう一度黙り込んだ。僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖かい想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。」 団塊の世代じゃなくても、若い男性がかならず持っているやり場のない苛立ち、つきあう女性がいても解消されない将来への不安、何も持っていない、何もできない苛立ちみたいなものが書かれていて、村上さんより10歳年下の我

餅。シーザーサラダ。野菜ペンネ。フライドポテト。

金曜日。午前7時前後に起き、日本から持ち込んだ南米豆ブレンド、エスファハンで買ったインド豆とフレンチローストの3種類のコーヒーをつくり、アイスコーヒーにしました。朝ご飯はバルバリとチーズとフレンチローストのコーヒー。残りのコーヒーはフレーバーごとに1.5リットルのペットボトルに詰めました。内儀がつくってくれたシャケおにぎりと味噌おにぎりをカバンに入れ、冷凍庫で凍らせていうたチューペットも保冷バッグにいれ、重くなった荷物をもって家族4人で10時20分に出発。 テヘラン日本人学校主催のチェナール祭りです。 我が輩たちはPTA幹事なのであれこれ仕事があります。花子は生徒で机移動など仕事があり、月子もゲーム担当になっています。 歩いてアフリカ通りに出て、日陰をえらびながら坂道を何ブロックか登り、スーパーマーケットで紙コップと水とジュースと塩ヨーグルトドリンクを買いました。タクシーに乗り日本人学校へ。 早くから来てくれている人々にアイスコーヒーとクッキーを出し、お昼までに餅つき準備などできることを終え、機材にへばりついた餅の切れ端など試食し、涼しい教室でおにぎり弁当。 午後2時半の開場までにペルシア語アナウンス担当のサーベル先生とリハーサルを終え、定刻どおり開場。我が輩は日本語の司会担当ですが、NHKふるさとの歌祭りの宮田輝さんも降臨せず、トニー谷も降臨せず、関西弁の浜村淳も降臨しなかったので、ふつうに司会をやりました。そのせいかその1日で半年分くらいのまじめさを使い切ってしまったような気分になりました。 午後6時に無事閉会し、6時45分にざっと片付けを終え、解散。 我が輩たちは徒歩でバリ・アスール大通りまで出てバスにのり、坂道を駆け上がってメラット公園駅で降り、そこのモールのレストラン「コローブ」で夕食。シーザーサラダ、フライドポテト、娘たちはハンバーガーをシェア、我が輩と内儀は野菜ペンネをシェアしました。ドリンクは 塩ヨーグルトドリンク、レモンスカッシュ、搾りたてオレンジジュースなど。 その時だったかその前だったか忘れましたが、内儀がこんなことを言いました。 「エスファハンのコーヒー屋、ゲイだと思わない?」 「そうかもしれないな。ゲーハーだったし。」と、我が輩。 「おしゃべりなところと、フィリピン人が猿の脳みそを食べるのが許せなかったから店を

チキンカツ。野菜サラダ。

水曜日。朝はいつものとおり出勤。月子、花子、我が輩の3人でアフリカ通りまで歩き、そこでタクシーを捕まえ、ゴバディエン通りまで乗り、3万か4万リアルを支払い、ありがとうと神が共にあれと言ってタクシーを降り、日本人学校まで歩きます。職員室の先生がたに挨拶し、校長室の校長先生に挨拶し、事務局の事務局長さんに挨拶します。花子は事務局の前にある水槽の金魚に餌をあげることもあります。花子が階段をあがって教室に行くのを見送り、月子と我が輩は道路に出てヴァリアスール通りまで歩き、そこで我が輩は南行き、月子は北行きのバスに乗ります。我が輩は2両連結の冷房が効いたバスを待ちます。 午前中は報告書の添削、お昼は弁当のサンドイッチ、午後はテレビ会議記録。夕刻、ぶどうジュースとすいかを買って帰宅。夕食はチキンカツと野菜サラダ。暑くて消耗したのか、左足の踵が痛く、それをかばった右足が音をあげたのか、大いに疲れたので8時頃に寝ました。翌日の午前2時に目が覚め、村上春樹の「1973年のピーンボール」を半分読み、グラスに水を入れて飲みました。

バルバリ。野菜サラダ。

火曜日。朝はいつものように出勤。まず花子を学校に送り、月子とあれこれ話しながらバス停へ。午前中は報告書執筆、お昼は弁当、午後はテレビ会議。あっという間に1日がおわり、帰路さくらんぼと熱々のバルバリ(巨大な草履型パン)を買って帰宅。 内儀の発案で、夕食はまだ温かいバルバリと野菜サラダ。我が輩と内儀は鎮魂酒。

親子丼。野菜サラダ。

月曜日。なんとなく道路が空いています。やっぱりみんな4連休の前後に休むんだろうなイランでは。お昼は弁当。夕刻、ぶどうジュースとメロンを買って帰宅。夕食は内儀ががんばって作ってくれた親子丼と野菜サラダでした。

ペパロニのピッツア。フレンチフライ。シーザーサラダ。

日曜日。夢のなかで人間はフィクションがなければ生きていけないと考えていました。朝はいつものように食事をして花子を学校まで送ってから出勤。途中、ペルシア人が世界征服したら週休3日制になるんじゃないか、なーんて考えていました。お昼は弁当。半期の報告書書きを終え、夕刻気温35度のクソ暑いなかをさっさと退社。バス通りまで歩いたところで愛する内儀から電話。夕ご飯と野菜と卵を買ってきてほしいとのこと。バスは冷房車を選んで乗り、いつもより手前のバス停で降りて気楽なレストランでペパロニのピッツア、フレンチフライ、シーザーサラダをテイクアウトで注文。できるまでの間に近所で野菜と卵の買い物。タクシーで家の近くまで行ってもらい帰宅。帰宅したら内儀が寝ていました。カモシカのような脚を挫いたんだと。あら大変。しかしエスファハンで挫いたわけではなく、今週末に学校であるはずのイベント中に挫いたわけでもなし、「グッドタイミングやん」と励ましたら内儀は複雑な表情でした。みんなで早いめの食事をして、内儀にはさっさと寝てもらいました。久しぶりの洗いもので腰が痛くなりました。ヤバイな。トシには勝てないぜ。(吾妻光良とスインギンバッパーズ)

焼きシャケご飯。

土曜日。午前11時まえに起床。エスファハンのバザールで買ったフレンチローストのコーヒー豆を挽き、玉ねぎとジャガイモを刻んで炒め、冷凍しておいたバルバリを焼き、シナモン紅茶をいれてみなを起こしました。食事のあと、内儀は洗濯、我が輩はエスファハンの土産やら荷物やら写真の整理。花子は揺れるミナレットのプラモづくり。月子はたぶん宿題かな。家族揃って1日じゅう引きこもり、下のプールにもいかず。 夕食は焼きシャケご飯。鎮魂酒。玉ねぎじゃがいもの残り。 「しみじみ旨いなあ。イラン飯もいいけれど、えびケバーブもいいけれど、やっぱりシャケめしやね。死ぬ前にブリの照り焼きと焼きサーモン、どっちかって言われたらどうする?」 「わたしはシャケ。ぜったい。死ぬまえに蕎麦かソーメンかって言われたら?」 「日寛上人は江戸っ子だから蕎麦だったけど、ワシはソーメンかなあ。死ぬのが3日まえにわかったら、両方喰う。うどんも喰う。」 さて音楽にウルサい向きにひとこと。我が輩はエスファハンの一連の投稿で、「デューク・エリントンの名曲イスファハン」と書いておりますが、これはじつはビリー・ストレイホーンの作曲だったかもしれない。女たらしだったデューク・エリントンと、ゲイだったビリー・ストレイホーンはコンビを組んで、どっちがどっちだかわからないくらい名曲の数々を作りました。イスファハンもそのうちの1曲。この二人はいわゆる「エリントン学派」といわれていて、不可分になっています。だから我が輩も便宜上デューク・エリントンと書きましたが、ひょっとしてビリー・ストレイホーンだったかもしれない。大昔に手に入れた楽譜にはビリー・ストレイホーンとあったような気もする。 ふう。やっと一連の投稿を終えました。おやすみなさい。明日から仕事だ。イラン人が世界を制覇したら、きっと週休3日制を広めてくれるだろうな。

エスファハン第3日め その6 テヘラン帰還

イマーム広場で空が暗くなり、かなり近くで雷がなりました。早い目にきてくれたバンに乗り込んで一路空港へ。とちゅうばらばらと雨が降りましたが、バンのフロントグラスを汚しただけで雨は止みました。空港で定刻10時05分にイランエアが出発するのを確認し、またの再会を約してみきさんとお別れしました。とても楽しかったなあ。 飛行機は30分遅れで出発。我が輩は家族も含めて、いままで奇跡といっていいくらい飛行機の運がよく、シラーズの旅でもほぼ定刻、エスファハンの帰りはたったの30分遅れです。ただしこれにはオチがあって、イランエアのエスファハン・テヘラン便は出発が22時05分、到着が23時25分となっています。エスファハン・テヘラン間という短い距離なのに、飛行時間がなんで1時間20分なのだ?と思ったら、スケジュール自体がサバを読んでいたのでした。じっさいの飛行時間は40分。飛行機はフォッカーF100、双発エンジンが胴体の後ろについているやつです。 ロールスロイスのエンジンがしゅるしゅると回り、うとうとしているとあっというまにテヘラン。スムーズにタクシーをつかまえて夜半近くの道路をすいすい走り、家についたら12時前でした。無事でよかった。コーヒー豆を冷凍庫にいれました。

エスファハン第3日め その5 カフェでお茶。静かなる中国人ご一行の話。コーヒー豆お買い上げ。

アリガプの階段を降り、また広場を横切ってお向かいのバザールのどんづまりのカフェへ。ウィリアム・ギャリソンっぽいハーモニカのBGMが流れるお洒落で静かなカフェ。  コーヒーなど頼み、まったりしていると中国人のおっさんおばはん6名様ご一行が来訪。でっかい望遠レンズをつけたニコンのカメラをもっている人たちです。その望遠レンズくらい態度がでっかくなるのだろうなと、我が輩も内儀もみきさんも(ーー;) ウ。しかし驚いたことに、店内は静かなままです。さりげなくご一行のほうを見ると、(゜o゜)なんとみなスマートフォンをいじっています。そこで一句。 スマートフォン 中国人を 黙らせる 数分して一行がスマートフォンをいじり終わると、北京語に広東語が入った会話が聞こえてきました。しかしみなさん落ち着いたおトシのせいか、それとも中華もペルシアもおたがい五千年の歴史をもつという遠慮のせいか、店内はそれほどうるさくならず、我々は微笑とともに店をあとにしました。 それから我々はバザールのなかで、コーヒー屋をみつけてコーヒー豆を買いました。お兄ちゃんいわく、「フィリッピンでカフェーやってたんだけどサ、やつら猿の脳みそを食べるんだよね。それでフィリッピンがいやになっちゃってサ」なーんて話してくれます。にいちゃんがおもしろいし、コーヒーの香りがよかったし、試飲もさせてくれたし、決して高くなかったのでフレンチローストを500グラム、インド産の豆を500グラムお買い上げ。 それからイマーム広場で馬車に乗ったりして遊び、3日めの夕闇は静かに深まってゆくのでありました。

エスファハン第3日め その4 イマームのモスクで昼寝。アリガプ宮殿で階段登り降り。

食事のあとバンでイマーム広場。BGMはデューク・エリントンのエスファハンにひきつづき、キング・クリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」と、同じアルバムの「21世紀の精神異常の男」が加わりました。なんでかっていうと、イマーム広場にはアリー・ガプという宮殿があって、宮殿 =>クリムゾンキング、そしてアルバムリピードモードで =>21世紀の精神異常の男、というあんばいです。リピートモードだけれど途中の曲「風に語りて」や「ムーンチャイルド」はなぜかスキップ。 脳内で3曲をリピートさせながら、暑い日差しのなか広場を横切ってイマームのモスクへ。薄暗いなかにじゅうたんが積み上げられた一角があり、1枚分だけじゅうたんが広げられています。これ幸いとみんな靴を脱いでそこで昼寝。天井を眺めながら、なんで360度を16に区切るんだろう?90度を4つにくぎるって、何なんだろう?そういえばペルシャ音楽でもCからD#、西洋音階でいうと半音3つ分を4つに区切ったりしているよなあ。 なーんて考えていると、イラン人のおばちゃん一行がはいってきて、どうやら「なんであの人たちがまったりしているのに私たちは・・・」なーんて文句を言っているらしく、笑顔で「どうぞ!」と席を譲りました。 すっかり元気回復して広場をふたたび横切り、お向かいのアリ・ガープ宮殿へ。入り口すぐの四角い広間で、対角線上のすみっこに2人を配置し、おたがい背をむけて壁の角にむかってぶつぶついうと、対角線上の相手にぶつぶつが聞こえるという不思議。500年前のペルシアにも、ボーズ博士のように音響の天才がいたのだろうな。展示部屋でエスファハンのインタラクティブDVDを売っていました。我々が見損ねたアルメニア教会の拷問地獄絵図もクイックタイムで見れるというので即購入。 アリガプ宮殿は壁が漆喰でできているので落書き厳禁。汗をかいて歩いて上がるとエスファハンが一望できます。写真は途中の階からの眺めです。

エスファハン第3日め その3 シャヘラザーデでえびケバーブ、マス、ラムチョップ。

幸か不幸か拷問地獄絵図を見ずにすんだ一行を乗せたバンは再び川を渡り、なにやら見慣れた街路に止まります。前夜のステーキサンドイッチの店の斜め向かい。おやこれはエスファハンで一番というシャヘラザードレストランではあーりませんか。これがみきさんの手配になる本日のハイライト。そして我々は2階へ。 写真は3階から撮影したメインフロアー。今まで我々が、せっかくの名ガイドみきさんがいながら路上食に近いものばっかり食べてきたのは、彼女が我々家族の超リラックスまったりモードにあわせて日程を組んでくれていたからでありまして、彼女の実力はエスファハンの、つまりイランで一番人気というシャヘラザーデの、金曜日のお昼という 困難時間帯に、表にわんさか人だかりがしているなか我々一行をするりとなかにいれることができるほどのものであることを書いておかなければなりません。さてここの名物えびケバーブ、鱒、そしてラムチョップを注文。ドリンクは店じまんヨーグルトドリンク。 えびケバーブは想像していたえびのすり身ではなく、4センチメートルくらいのえびを、まるで王将の餃子のようにぴったりなかよく並べて焼いたものでした。付属のタルタルソースをつけないほうが我が輩の好みです。小さめのラムチョップも美味で、花子もむしゃむしゃ食べていました。

エスファハン第3日め その2 毒殺の家と、見なかったけれどアルメニア教会の拷問地獄絵図。

金曜モスクからしばらく走って市街地の狭い道に入り、路地のつきあたりにある家に到着。ここはマジャール朝時代、民主運動家の隠れ家であり、その後のパハレヴィ朝の拠点になったという伝説の家。いまは博物館になっています。ここでは近代イランの政治史を人形付きで見ることができます。民主運動家の毒殺の部屋。写っているふたりはお人形。 一行を乗せたバンは良すぎる日差しのなか、川を渡ってアルメニア人街へ。シャーが商売上手なアルメニア人を移住させたのだそうで、いまでも2万人くらい住んでいるのだとか。石畳の奥にあるのがヴァンク教会。たまたま閉まっていたものの、もし入れたらそ中にはキリスト教徒がこれでもかこれでもかという残虐な拷問にあっている地獄絵図の壁画があるのだとか。アルメニア教会はたしか世界最古のキリスト教会、ということは拷問しているほうはローマ帝国の警察なのかな。村上春樹の「雨天炎天」にも、ギリシャ正教の教会の壁画に地獄図があって、拷問されて「困ったな」「かなりだめそうだ」という表情をしているキリスト教徒のことが書いてあった。最古の教会から島原の乱にいたるまで、受難というのはキリスト教徒のアイデンティティー確立となにか深い関連がありそうだ。 教会に向かって右に歩いた最初の角に「アルマーニ」という店がある。そうか、イタリアの有名デザイナーのジョルジュ・アルマーニはアルメニア系だったんだ。だから商売上手なのか。

エスファハン第3日め その1 金曜モスク近くのバザールでかき氷。

金曜日。朝ごはんはホテルのルームサービス。果物は前日がバナナ5本、この日はスイカ1/4。お昼前にみきさんと待ち合わせ、バンで出発。しばらく走ってからバンは地下のロータリーで駐車。ここは巨大な地下ロータリーにバス停が併設されています。すごいね。階段を上がればそこはイマーム・アリー広場。結婚用品の飾りものや砂糖塊などを売っている店々の前を通り抜ければ金曜モスク。広場に面した日陰ではおっさんたちが昼寝をしています。家庭内に居場所のないおっさんたちがここに来て昼寝するのだと聞き、モスレムじゃない我が輩でもモスク昼寝おやじに親近感がわきます。  金曜モスクの暗がり、足の具合が悪いので願掛けのお参りに来ているおっさんのかたわらでしばし瞑想。それからモンゴル時代の漆喰オーナメントなど眺めたり、トイレで写真撮影したり。この手洗い場のデザインは、妹尾河童さんのトイレ本にあった一ツ橋大学のトイレに似ています。きっと一ツ橋のデザイナーがパクったのだろうな。なんせこっちは8世紀から14世紀の建築というのだから。 金曜モスクの周囲は庶民的なバザールになっていて、どこまで庶民的かというとディスプレイの人形のぞんざいさにそれが現れています。たとえば子供服の店がこんな感じ。  内儀はその市場でカラス衣装(いわゆるブルカ)をお買い上げ。クソ暑いので娘たちはかき氷。

エスファハン第2日め その3 三十三桁橋でステーキサンドイッチ。奈良県イラン人に出会う。

じゅうたん屋の手引きでモスク見学を終え、そとはすっかり夕暮れ。家族連れでいっぱいの人だかりです。我々は芝生でひとやすみ。 それから歩いて三十三桁(シーオーセー)橋方面へ。アーチが33あるので33桁橋と呼ぶそうです。日本にも三十三間堂ってあるよね。 橋の手前、エスファハンでいちばん有名なシャヘラザードというレストランの斜め前のステーキサンドイッチ屋でテイクアウト。ここのステーキは、縦にくるくる回る軸に屑肉をペタペタ貼り付け、外からオーブンでじりじり焼いたのを鉄板で野菜といっしょに炒めかきまぜたものです。蛮地バグダッドで学んだのは、羊肉が新鮮なうちはティッカ(角切り肉の串刺し焼)、2日めでヤバくなったらケバーブ(金属製ヘラにミンチをのせて焼いたやつ)、3日め以降いよいよ腐りかけてきたら縦軸円錐型貼り付け焼、ということでした。しかしイランでは縦軸貼り付け店であっても腐りかけの屑肉を食わされるわけではなく、安心できそうです。やっぱり文明国は違うねー。  あつあつのステーキサンドイッチと冷え冷えのモルトドリンクをコンビニ袋にぶらさげ一路川岸へ。堤防にすわって夜景をながめつつサンドイッチをもりもり食います。川風が涼しく、とても気持ちのいい夜です。  そこで偶然、奈良県に住んでいるというイラン人のおっさんに会いました。正倉院の絵柄のじゅうたんを作って商っているというサイード・メヘラリさん。奈良県では有名なイラン人、と本人談。世界は広いのに世間は狭いよね。ステーキを食べ、記念撮影をして、一行は歩きはじめました。みきさんの滞在ホテルの近所まで彼女を送り、我々はホテルに戻りました。

エスファハン第2日め その2 絨毯屋でお茶。

アッバーシーホテルでお茶のあと、歩いて八天宮パレス公園を通り抜けホテルに帰着。このパレスはそもそも中に入れないので通り過ぎるだけ。シャー・アッバースが大急ぎで建てたのだそうです。ホテルでシャワー、ナッツと鎮魂酒、読書、昼寝。 夕刻5時、みきさんと待ち合わせて外出。ぼちぼち開きはじめた店をひやかしながらイマーム広場へ。  バザールをうろうろしてから、とある絨毯屋に入り、絨毯椅子にすわって出されるがままにお茶。店主のじゅうたん講談など聞き、感心したようにうなづきつつ、まったりとお茶をすすりつつ、 「そのシルクのものはじつに美しい。んでもって値段はお幾らであるのか?」と我が輩。 「旦那、たったの1400ドルで候。とても優しい。」 「んでそのバルーチ族のウールものは?」 「たったの450ドルに候。クルード族のものがたったの550ドルで候。これも優しい。」 「なるほど、我々も優しいので、あわせて1500ドルということか?」 「えーと、いやいやそれはお客さん優しすぎというか・・・。」と店主爆笑。 「パパ、いい加減にしないと・・・。」と花子。貧乏なパパがじゅうたんを買わされてしまうんではないかと、心配してくれています。そろそろ時間です。 「それでは優しい家族会議をするので、結果は明日伺ってからということで。ごきげんよう。さようなら。ご歓待に感謝します。」と、優しくも断固たる内儀の宣告で絨毯屋をでます。 みきさんがじゅうたん屋に連れてきてくれたのは、じゅうたん屋がモスクにコネをもっているからです。モスクでは祈りの時間にじゅうたんを敷き詰めるので、じゅうたん屋はふつうの人や参拝者が入れない時間帯と場所に出入りすることができます。てなあんばいで、ワケあって以下省略。青シャツがじゅうたん屋の若い衆です。

エスファハン第2日め その1 アッバーシーホテルでお茶。

1日めが強行軍だったので2日めは目覚ましをかけず朝寝。いつものように自分がどこにいるのかわからない状態で目覚め、水を飲みました。朝ご飯はホテルのルームサービス。ルームサービスとは贅沢なようですが、この八天宮(ハシュト・ベヘシュト)というホテルには食堂がないので、中メシはことごとくルームサービスです。フルーツ、紅茶、チーズ、卵焼きなどシンプルながら味わい深いメニュー。第2日めはイマーム・ホメイニの命日でどこもお休みという事前の話。ゆえにクルマはたのまず、夕方からみきさんと徒歩で散策という計画です。 お昼ごろに4人で外出。行き先は木陰を選んでてくてく歩いて15分くらいのところにある高級アッバシーホテル。ここの中庭がすばらしいらしいのでホテルの茶店でお茶を楽しむという企みです。まずは中庭で記念撮影など。クソ暑いのですぐに中に入り、チャエハーネ(茶店)へ。 内装がすばらしい。高級感にあふれています。娘たちはそれぞれチョコレートシェイク、ピーナッツミルクシェイク。我が輩と内儀はアイスコーヒー。メニューを見ているうちにフレンチフライ、サラダなど追加してしまったのは、すでに腹が減っていたのでしょう。前日は施しものの豆シチューだったからねー。 隣の席ではアラブ人らしき家族4人連れ。我々とおなじ組みあわせです。女の子ふたりがヘジャーブ(かぶりもの)をかぶっていないのは、たぶんふたりとも小学校低学年でしょう。しかしお姉さんのほうは、日本なら高校生でも通じるくらい大人びています。ということは父親もかなりのオサーンに見えるけれど、30代なかばくらいなのか? 春から夏にかけて、もし部屋をとっているのでなければ、この中庭はカフェから眺めるのがいちばんいいようです。しかし建物そのものが古いので、ホテルの部屋は値段のわりにフツーなのだとか。

エスファハン第1日め その4 モスクの施しもので腹一杯になる。

エスファハンの街を東西に流れる川の南側に800年前から存在するという巨大な墓苑があります。我々がむかったのはその一角にあるロクノルモルクという小さなモスク。ロクノルモルクモスク。舌を噛んでしまいそうです。 どこのモスクでもそうですが、鎖が入り口にぶら下げられていて、それは神と人をつなぐ鎖なのだとか。だからそれをゆらゆら揺すってモスクに入るのがいいそうです。迷信なのか何なのか、そのあたりのユルさがシーアの面白いところです。我々がモスクの中庭で座ってくつろいでいると、若い坊さん見習いらしき人がうろうろしたり、寺男らしき爺さんが夕方の祈りの準備のためか、絨毯を広げはじめたりしています。 そのうちに爺さんのひとりがやってきて、プラスチックの丼になみなみと入れた豆煮込みシチューをくれました。アーシュレシテという豆煮込みうどんシチューなら食べたことがありますが、レシュテ(うどん)が入っていないのでこれは単にアーシュというべきなのか。今まで食べたうちで一番おいしい豆煮込みシチューでしたが、なんといっても量が多く、5人で二碗たいらげるのがせいぜいです。これも翌日がイマーム・ホメイニの命日ということでの施しです。せっかくの施しものなので、残すのも失礼と思い必死に食べ尽くしました。食べ尽くしたところで別の爺さんにまた1碗と勧められ、それはありがたくテイクアウトさせてもらい、バンの運転手君にさしあげました。 それから一行は裏手の墓地で散策。ミュージシャンたちが詩人の墓の前で歌を歌い、家族連れが夕暮れの散歩をする、それはのどかな墓苑でした。  日暮れが近づき、我々はバンに乗って街の南東の岩山の麓へ。ロープウェイの麓駅の隣の5次元シアターでアホなショウを楽しんだり(ひとり5万リアル=190円)、夜景をながめてからバンでボテルに戻りました。今日の晩メシがモスクの施しもので終わってしまい、ちょっと残念。

エスファハン第1日め その3 施しもののアイスクリームをハジョー橋で喰う。

クソ暑い岩山のふもとを離れ、一行を乗せたバンはメインロードをはずれて川沿いの林間へ。きれいに植樹された林間を散策し、お花畑で記念撮影。道端でプラムやさくらんぼを買い求め、それらを車中もぐもぐ食べながらハジョウ橋へ。途中の路上でアイスクリーム屋さんが道行く人々にアイスクリームを配っています。翌日がイマーム・ホメイニの命日ということで、振る舞いをしているとのこと。我々はハジョウ橋のたもとに座り、水辺でアイスクリームを賞味。橋をわたったところでテレビ撮影隊につかまりインタビューされるみきさんを置いてけぼりにして我々は水辺でさらに遊びました。 インタビューから解放されたみきさんが次に案内してくれたのが、エスファハン最古の橋。つくられたのが西暦500年ころというのですから、 「聖徳太子より前かな?」 「じゃあ日本人がチンパンジーの時代?」 「失礼な。せめて卑弥呼くらいちゃうん?」 橋をわたった展示会場でトイレに行き、また橋をわたってバンでコンパクトなモスクへ。

エスファハン第1日め その2 揺れる塔のモスクでプラモデルを買う。西洋人が岩山で脱落するのを眺める。

水曜日の続き。名ガイドみきさんと再会を喜びあい、さっそく用意してくれたバンに乗り込みました。塔(ミナレット)の揺れる時刻が近づいているというので、一路西方へ。「揺れる塔(メナーレ・ジョムバン)」という安易きわまりない名前のモスクですが、王の招きではるばるバグダッドからやってきたという聖人の棺が安置されています。ま、エスファハンのほうがバグダッドで死ぬよりよっぽどいいよね、とバグダッドでろくなことがなかった我が輩は思うのであった。前の広場でピース印の記念撮影などしていると、おっさんが塔に登り、からだ全体を使って揺らしはじめました。塔が揺れると、そこにつけたベルがなります。そしてもう片方の誰ものっていない塔が揺れ、そこにつけたベルもなります。 「ヤバくね、これ?」 「塔の根元で動いてる。こらヤバいわ。」 「いつか崩れるんじゃない?」 当時の土建屋が手抜きをしたのかどうか、しかし14世紀からあるらしいので、数百年ゆらゆら揺らしながら今日に至るのであります。 聖人の棺のとなりで、エスファハンの有名どころの建築物のプラモデルを売っていました。花子がとてもとても欲しがったので、揺れる塔の建物のプラモを購入。右の塔を揺らすと左の塔も連動して揺れるようになっているスグレものです。 ミナレットは崩壊せず、一行はバンに乗り込みさらに西へ。中心街から6kmにアタシュガーなる岩山があって、てっぺんでそのむかし拝火教徒が焚き火をしていたのだとか。バンを降りたらまだクソ暑く、木が生えていない岩山なんか誰が登るものかと思ったら、後からやってきた西洋人一行みたいなのが入場料を払って登りはじめました。地球の歩き方に書いてある「道があまり整備されていない」どころじゃなくて、道などそもそもござらん。西洋人らしき一行はてんでばらばらに岩にとりつき、数分もたたないうちに半数くらい脱落しておる。

エスファハン第1日め その1 ペルシア人の考える「中華風」フライドチキンとごはん

水曜日。朝4時に起きて水を飲み、支度をして5時半に家族揃って出発。予約したのに遅れてやってきたタクシーにむっとしながら、ベイハギというバスターミナルに着き、チケットを受け取ってトイレにいってからバス搭乗。朝から脳内で鳴っているBGMはもちろんデューク・エリントンの名曲「イスファハン」ローランド・ハナのピアノソロです。 バスターミナルからほぼ6時半の定刻に出発したバスの前のほうで、運転手と助手が「よーせーしょ。要請書。」「それゆーならどーしゅた。」なんていう空耳ペルシア語会話を聞きながら熟睡。 VIPバスはシートがとても快適で、アホのように大口をあけて眠ることができます。普通なら45人くらい詰め込むところなのに、横3列X縦8列=24人乗りですぞ。 午前9時、中間地点について20分の休憩。トイレにいってから、アイスキャンデーふたつを5000リアル(20円くらい)で買って花子と食べました。そこから高速道路の舗装がよくなってスムーズ感が増し、潅木しか生えていない外の景色を眺めました。我が輩の脳内BGMはやはり「イスファハン」ですが、運転席から聞こえるのは細川たかしみたいなオッさんがオーケストラをバックに歌うペルシア語演歌です。演歌が終わり、カシオトーンで作ったようなシャカシャカしたラウンジ音楽がしばらく続いたところで12時20分、エスファハンの街はずれのバスターミナル到着。トイレにいってから、タクシーでホテルへ。ホテルは街のほぼど真ん中にある地味めのスイート。家族4人の滞在なので、ひとり1泊4500円くらい。超お得。 お腹がすいたので、ルームサービスで「中華風」フライドチキンとご飯。ペルシア人の考える「中華風」というのは期待通り、コロモなしのチキン唐揚げと野菜(ナスとトマトとジャガイモとブロッコリとか)炒めでした。ごはんにあってとても旨い。大当たり。 さてひと休みして、午後3時から名ガイドみきさんの案内で市内観光に出発です。

野菜サラダ。パスタ。

月曜日。朝ベッドから転げ落ち内儀をフルネームでさんづけで呼んだけれど応答なし。そのうち考えが時空を超えてあちこちに飛び、気がつけばベッドから転げ落ちてもおらず、内儀も呼ばれていないんだと。体が熱っぽいまま朝食を食べ、本日欠勤を決意。みんなを送り出してソファでまた時空を超えた世界へ。一日中寝転んで合間に読書。塩野七生「我が友マキアヴェッリ」−フィレンツェ存亡−。マキヴェッリ最後の手紙にいわく、「この傭兵たちのように、戦いによって利益を得るものたちが平和を望むとしたら、そのほうが狂っている。運命は、われわれが想像する以上の凄惨な戦いを、彼らにさせるような気がする。」500年前のイタリアでそうだったのだから、いまさら悲観的になることはないのかなあ。夕食は野菜サラダと軽めのパスタ。

サラダ。海苔おにぎり。

日曜日。朝から曇っていて雨がぱらついていました。我が輩と月子で花子を学校まで送り、先生に挨拶してから月子とバス停。それから出勤。お昼は弁当。 夕 刻さっさと退社したら外は強い日差しで、おまけに空気が湿っています。クーラーがなかったら満員のバスで気絶していたねー。水を買って帰宅したら、花子が レモンスカッシュをくれました。花子優しい。シャワーを浴びて鎮魂酒と麦茶を交互に飲みながら内儀と情報交換。夕食は軽めにサラダと海苔おにぎり。 食 後、日本の地震はどないなったんかいなと日本放送協会の海外向け無料番組を見たら、いきなりシリアの空爆の話。しかも「シリア人権ウォッチによると政府軍 の爆撃」っていう一方通行言いたい放題の内容。シリア人権ウォッチって、ロンドン近郊の一軒家でシリア人のおっさんがひとりでやってる例のやつでしょ。昨 日も地震のニュースを見たくってNHKをつけたら、とんびが空を飛んでいる動画が延々と流されていて、そのあとFIFAのスキャンダルだもんね。情報の正 確さよりもいちはやく日和見的立場を的確に表明する、心温まるエンタテインメント放送局。報道機関のビッグ・リバウスキーといわれるぞ。いや我が輩は怒っ ているわけではござらん。日本の視聴者様のおかげで、海外に住んでいる我々は無料で見られるのだから。

焼きシャケ。ごはん。スモークトチキンのせ野菜サラダ。

土曜日。朝は月子と内儀が出かけたのもわからないくらい熟睡。朝ご飯は前日の残りもの。お昼すぎにみんなで月子お出迎え。近所の店でメロンのフレッシュジュース。月子はチェリーのジェラート。花子はいちごのフレッシュジュース。小腹がすいたのでスイートコーンとマッシュルームのメルテッドチーズかけをひとつ買い、みんなで分け分けしました。どれも価格は5万リアル(190円くらい)前後と心憎い設定です。テヘランの外食価格は日本とほとんど一緒かな。帰宅してブログ書き貯めやら読書やら。檀ふみ・阿川佐和子「ああいえばこう食う」でひと大笑い。